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鳴門(第九初演の地) |
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「彼らもお国のために戦ったのだから」
が口癖だったと言う、会津藩出身の松江豊寿所長。
敗者への思いやりにあふれる、彼の人間性と信念を反映したこの収容所では、
捕らわれの身になった
ドイツ人兵士たちにも比較的自由な生活が許され、
地元の人達との文化的交流もあったと聞いています。
その一つがオーケストラや合唱団の活動で、
彼らの第2回コンサートで演奏されたのが、
ベートヴェンの「第九」交響曲、
1918年(大正7年)6月1日のことでした。
全国から集まった「第九」の仲間たち
鳴門市ではそれを記念して6月1日を「第九の日」と定め、
1982年からは毎年6月の第一日曜日に演奏会を開催しています。
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このページに対するメールで最も多いのが、「日本で年末に演奏されるようになった由来を教えて下さい」という問い合わせ。その都度お答えするのも大変なので、15回記念講演時に配布された、「なるとの第九」からその関連記事を書き移しておきます。
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『年末の第九、のことの起こりは昭和18年。東京音楽大学(東京芸術大学音楽部)の奏楽堂で行われた、出陣学徒壮行の音楽会と言われています。 太平洋戦争の状況が悪化する中、法文系学生で満20歳に達した者へも徴兵令がくだりました。彼らは入営期限を間近に控えた12月の初旬、繰り上げ卒業式の音楽会で、第九の第4楽章を演奏したのです。 出征した者の多くが戦死し、やがて太平洋戦争も終わりました。生きて帰ってきた者達の中で、「奏楽堂の別れの際に演奏した第九を再び」と言う声があがり、演奏の運びになりました。つまり「暮れの第九」の出発は、戦場に散った若き音楽学徒への鎮魂歌(レクイエム)だったのです。
その後日本経済の復興とともに、オーケストラ団員の越年資金を得るために、年末に第九が演奏されるようになり、しだいにそれが定着していったと思われます。』
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第九初演の時代背景や、収容所長松江豊寿に興味を持たれた方は「ドイツ館」にどうぞ。かつての収容所近くに建てられたこのドイツ館、一番札所霊山寺にも程近く、周辺にはドイツ橋・ばんどうの鐘・慰霊碑などがあり半日観光に適しています。鳴門駅からはタクシーで20分、約3,000円でした。 |
入館料 : 大人300円 小人100円
TEL : 0886(89)0099(代)
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1997年5月17日、このドイツ館前広場の高台に"ベートヴェン像"が建てられました。鳴門市市制50周年の目玉として建立されたもので、これは除幕式が行われたばかりの、お披露目ホヤホヤの像です。
翌日の新聞記事によりますと、『像の高さ3m、台座1.4mのブロンズ製で制作費は1500万円』だったとか。 指揮棒を振り上げた瞬間のダイナミックな姿は、苦虫をかみつぶしたような今までのイメージとは一味違っていました。音楽ファンならずとも、一見の価値はありそうですよ。 例年ですと演奏日は「6月の第一日曜日」と決まっていましたが、この年は特別で除幕式翌日の5月18日が演奏会でした。 |
ドイツ館内には、実物大の人形が演奏を聴かせてくれる「第九シアター」、収容所新聞「ディ・バラッケ」、記録写真類、興味深い史料がたくさん展示されています。特にお勧めは、当時の収容所の生活をミニュチュアの人形で、本物そっくりに再現した「俘虜たちの暮らし」コーナーです。このバラックの部屋を覗くと、
当時収容所内には俘虜経営の「ボーリング場」があり繁昌していたようです。
「第九」の里 ドイツ村(林 啓介著 井上書房)によると、 『いわゆるドイツ式の九柱戯で、固い木を丸く削ってボールを作り、数十メートル離れた九柱への命中度を競った。 ピンが現在のように十本ではなく、賭博性の強いものといわれる。料金は時間帯により異なり、1時間30〜50銭で1日中利用できた。 いずれにしても、板東収容所ボーリング場は、江戸時代長崎の出島でオランダ人が行ったのに次いで、日本で二番目に古いとされる。』 |
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