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ひめゆりの塔

 沖縄観光の前には「沖縄戦で亡くなった方々の冥福を祈らなければ」、と思っておりましたので、那覇空港でレンタカーを借りてまず向ったのは南部戦跡。糸満から南へ、数キロほど走るとそこは沖縄戦最後の激戦場地域。幹線路沿いにある"ひめゆりの塔"は、標識より先に土産物店の多さと、駐車場に車を呼び込む人の熱気で、すぐにそれとわかりました。有名な"塔"なのでもっと高いものをイメージしていましたが、ここにあったのは想像とは違っていました。

ひめゆりの塔

南風原(はえばる)第三外科壕の上に建つ、"ひめゆりの塔"



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 鮮やかな献花がなければ通り過ぎてしまいそうな、亡くなられた方々(219名)の名に白百合をあしらっただけの、それは名前通りの清楚な慰霊碑でした。"塔"の前にパックリと口をあけたガマ(鍾乳洞)での悲劇的なドラマは、この奥に建てられた資料館で詳しく知ることができます。


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ひめゆり平和祈念資料館

 季節の花々が美しい、中庭を囲うように建てられた資料館は、「戦争と教育」をテーマに大きく5つに分けて構成されています。恥ずかしながら私は、太平洋戦争のことも沖縄戦の悲劇のこともあまり良くは知りません。中・高の歴史の授業でも、何故か先生方が昭和史を避けていたような記憶だけが残っています。ですから、ここと次に紹介する沖縄県平和祈念資料館ではコメントは避け、いただいた資料の抜粋をのせることにしました。

ひめゆり平和祈念資料館

ロビーのガラス窓越しに中庭が望める、"ひめゆり平和祈念資料館"

第一展示室
(沖縄戦前夜)
生徒職員がまるごと戦場に動員されていく様子と、「捨て石」とされた沖縄戦の意味を、太平洋戦争の経過の中で解説する。
第二展示室
(南風原陸軍病院)
南風原(はえばる)陸軍病院の一部が実物大模型で復元。この壕の前で生き残りの方が、当時の戦争の悲惨さを生々しく語られていました。
第三展示室
(南部撤退と喜屋武半島)
喜屋武(きゃん)半島に追い詰められていく"ひめゆり学徒隊"の悲劇的な動きを、日米両軍の戦闘経過を交えながら再現。
第四展示室
(鎮魂)
"塔"の前に開口部を持つ第三外科壕が、実物大(高さ14m、幅16m、奥行き12m)に複製され、200余名の遺影が並ぶ鎮魂の部屋。
第五展示室
(回想)
第四室までとは異なり、横長の窓から中庭の花々が見渡せる明るい室内。ここは今までの展示を回想し、感想文を書くために設けられた部屋でした。

 戦場動員された女学生たちの仕事は、負傷兵の看護や死体処理、壕掘り、水汲み、食料・医薬品の運搬等など。軍に命じられるまま働き続けた彼女たちに、最後に与えられたのは戦場での"解散命令"。それが何故"死"を意味するのか、たやすくは飲み込めませんでした。単純に「投降すれば助かるはず」と思ったのです。

 でも、当時の教育では降伏は許されず死が義務づけられていたこと、しかも解散後は、シェルターでもあった壕に留まることをも拒まれ、戦場に放り出されたことなどを知りました。他の可能性を否定された彼女たちの選ぶ道は、自決しかなかったのですね。教育とは恐ろしいものです。



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私達は、

 「真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も、生きる権利さえももぎ取られ、死の戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを、決して忘れません。」

ひめゆり平和祈念資料館
"ひめゆり"の由来

 沖縄県立第一高女の交友会誌「乙姫」、と女子師範学校の「白百合」。

 両校の合併により交友会誌も一つとなり、それぞれの名前の一部を合わせて「姫百合」となりました。

 ひらがなで"ひめゆり"を使うようになったのは戦後のことです。


 先日のNHKニュースの中で、「決して死んではならない」という隊長の言葉と行動に守られ、そのほとんどが生き延びた、という積徳高女の話を取り上げていました。この話を聞いて、熱いものがこみ上げてきた方も多かったと思います。教育者・指導者たるもの、どうかこの軍医さんのようであって欲しい、と願ってやみません。



開館時間 : 09:00〜17:00
年中無休

入館料 : 大人300円 高校生200円 小・中学生100円

TEL : 098-884-1115
住所 : 那覇市安里388-1



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沖縄県平和祈念資料館


かつて琉球の先人は、 平和をこよなく愛する民として 海を渡り

アジア諸国と交易を結んだ

海は、 豊かな生命の源として 平和と友好の架け橋として

今なお 人々の心に息づいている




平和祈念資料館

沖縄戦 1945年4月1日、米軍は西海岸に無血上陸、3日には東海岸に達し沖縄本島を分断。4月5日からは南北に進攻し、15日には北端の辺土岬まで制圧。5月29日、首里城に星条旗が翻り、日本守備軍は南部に撤退。玉砕覚悟の持久戦をとった。

 本土決戦を1日でも遅らせるためのこの作戦は、「鉄の暴風」(米軍による無差別の砲撃・爆撃)を招き、12万余の民間人犠牲者を出した悲劇の沖縄戦へと人々を追い込んでいった。



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むすびのことば

 歴史に「もし、たら」は無いのですが、もし日本軍が沖縄で持久戦を取らなければ沖縄の悲劇はなく、広島・長崎への原爆投下もなく、太平洋戦争は8月を待たずに終結に向ったのでしょうか。

展示むすびのことば

 この戦争の原因・結果・意味を真摯に受け止めることなく、ウヤムヤに済ませてしまった人々のおかげで、戦後50年を過ぎた今でも周辺諸国との関係がギクシャクしています。戦争を知らない世代がその負の遺産を背負わされ続ける、と言うのも納得がいかないのに、その上今年は、歴史教科書に靖国参拝問題。

 人は一人では生きられない。国も一国では存在し得ない以上、自分を見つめ他者との関係を考えるバランス感覚が、どの国家にも必要なのではないでしょうか。ここの展示をみていると、あくまでも曖昧な態度を取りつづける日本政府に、「ちゃんと学んで!」と言いたくなってきます。この戦争で亡くなった方たちのためにもね。



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平和祈念公園

 資料館の建つ"摩文仁の丘"一体は、沖縄戦終焉の地。展望室に登ると、眼前には沖縄の真っ青な海が広がり「ワー、きれい!」と叫んでしまいましたが、実はここ、当時は"自殺の断崖"と呼ばれていたのだそうです。現在、周辺は平和祈念公園として整備され、1995年には、全戦没者の名を刻んだ"平和の礎"も建てられました。

 「慰霊の日」と定められた沖縄戦終結の6月23日、「沖縄全戦没者追悼式」が行われるのはこの公園です。

平和の礎

平和の礎(いしじ) : 「礎(いしじ)」は沖縄方言で「土台・基礎」の意味。沖縄各地には多くの慰霊碑が建てられているが、ここにはその戦没地、日本人外国人、軍人民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった総ての人々の名が刻まれている。その数およそ24万。



開館時間 : 09:00〜17:30(入館は16:30まで)
休館日 : 月曜日(月曜日が休日の場合は開館)
年末年始(12月29日〜1月3日)

入館料 : 大人300円 小人150円

TEL : 098-997-3844
住所 : 糸満市字摩文仁614-1



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