日本国旗

奴国の丘

奴国・伊都国・末盧国



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須玖岡本遺跡

 漢の皇帝から周辺諸国の王侯へと下賜された(らしい)ガラス壁。その一つは「須玖岡本遺跡から出土」、と書いてあったので地図で調べた最寄り駅、南福岡に行ってみました。駅で聞けば何かわかるだろう、と思ったのですが何故かチンプンカンプン。とりあえず「多分あそこ」、という場所を教えてもらい歩き出しました。

 駅から徒歩約15分。教えられた所には道路脇に、「青銅器工房跡」の説明版があるのみ。

甕棺墓
 迷い込んだ住宅街の一角には「王墓跡」の標識があったので、遺跡近くに来ていることに違いないのでしょうが、そこは歴史的遺構のかけらもないただのお家。「??」。

 「遺跡はどこ」かと途方にくれていると、丁度その家から人が出てきました。聞いてみると、「アー、それなら奴国の丘でしょう。ドームが二つ見えますからすぐわかりますよ」と行き方を教えてくれました。

 途中、熊野神社の境内にも「この丘陵一帯はかつて・・・」と須玖岡本遺跡の説明版があり、そこから5分ほど歩くと確かに銀色に輝く2つのドーム。

 「覆屋A棟」となっている手前のドームに入ると内部は、博物館でしか見たことがないような甕棺が、実際の使用状況そのままに並んでいました !


 入り口のスイッチを押して、説明テープを聞きながら見学しましたが、「お墓をこんな形で見ていいのかしら」と後ろめたさと不安な気持ちにさせられてしまいました。他に見学者がいなかった(つまり一人だった)からかな。

甕棺墓 : 弥生時代前期の後半(紀元前後、と言いますから今から約2000年前)になると盛んに造られるようになり、その後北部九州の代表的な墓製として発達する。



覆屋B棟

「覆屋B棟」

甕棺墓・木棺墓・竪穴遺構が見られる

 1899年(明治32年)に偶然発見された王墓も含め、須玖岡本遺跡の多くが今は住宅の下。「もっと早く重要性に気づいて保存しておけば良かったのですが、昭和30年代の宅地開発で農地は住宅地になってしまいました」とは、歴史資料館の職員さんの話。残念な現実ですがこれで、「須玖岡本遺跡」を地域の皆さんが知らなかった訳がわかりました。



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奴国の丘歴史公園

 墳墓跡や住居跡を含め、周辺は歴史公園になっています。中心は開設まもない(1998年12月オープン)歴史資料館。館内展示を見て初めて、先月新聞誌上をにぎわした「矢じりの鋳型出土 !」という考古学上の大発見は、ここが発信地だったと知りました。

矢じりの鋳型

一度に47の矢じりをつくれる鋳型のイラスト (出土遺物資料より)

 新聞の写真で見たばかりで、まだ記憶も生々しい矢じりの鋳型。「大規模な青銅器鋳造工房だったことが改めて裏づけられた」証拠品の実物をここで見られるなんて、期待していなかっただけに感激ものでした。



考古資料展示室

 次は「奴国」をテーマとした常設展示室。時代別に7つのテーマに分け、コンパクトにまとめられています。ここでの見ものは、周辺の工房跡から出土した鋳型類 (青銅器だけでなく、鉄器やガラス製品も )。遠隔地の遺跡から出土した銅製品が、ここの鋳型と合致することが先ごろ確認され、弥生時代の一大生産・流通センターだったことが裏づけられた、のだそうです。

幻の王墓

幻の王墓
 展示室入り口には、周辺54もの遺跡をジオラマで再現した、"須玖岡本遺跡群の概要"コーナー。その「王墓」をで検索してみると・・・、モニター画面に映し出された「甕棺の中に眠る王」。

 神秘的で美しささえ感じるその王様は、何と"壁(へき)"らしき物を抱えているではありませんか。どこに展示されているのかと室内を探してみましたが見つからない。

 「一体どこにあるんだろう。見たいなー」




 受付に戻って、"壁(へき)"と王墓のことなど質問させてもらいました。最後に「あの模型はどこで見られのでしょう」と尋ねると、「以前、資料館建設が頓挫した時に、ふれあいセンターの中に"奴国展示室"を設け等身大のジオラマで、青銅器生産の様子などを再現しました」。がその後、貴重な発見などが相次ぎ、この歴史資料館開設の運びとなったのだそうです。

奴国の丘

奴国の丘歴史資料館

 建設計画に中断がなければ、当然ここにあったであろう王墓の模型。余程見たそうな顔をしていたのでしょうか、「ご覧になりたければ、センターまでお送りしましょう」とうれしいお申し出。



開館時間 : 09:00〜17:00 (入館は16:30まで)
休館日 : 第3火曜日・年末年始

入館料 : 無料

TEL : 092-501-1144
所在地 : 福岡県春日市岡本3-57



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奴国展示館

 お言葉に甘えて、車で10分ほどの春日市ふれあいセンターまで送ってもらいました。非売品の資料もいただいた上、途中で発掘中の"溝"の横を通ってもくれました。「今後の調査でこれらが一連の溝だと確認できれば、吉野ヶ里を上回る環濠集落になるんですが・・・」、と言いながら。春日市教育委員会の丸山さん、色々とありがとうございました。帰ったらいただいた資料でしっかり勉強します。

幻の王墓

 センター2階の一角が「奴国展示室」。考古学資料の多くが歴史資料館に移されたためか、ガランとした室内は青銅器生産のジオラマだけが目立ちます。モニターで見た「王墓」はマジック・ビジョンになっていて、人が近づくと・・・、こんな風に黄泉の国から浮かび上がってきてくれます。



ガラス製壁

ガラス壁
 マジック・ビジョンでもわかりますように、王様は銅鏡や銅剣や勾玉に囲まれて眠っています。記録によりますと副葬品は、中国鏡30面前後、青銅の武器が8口以上、ガラス勾玉、そしてガラス製壁。

 周囲に聞く人がなく確認していませんが、腰のあたりに見える緑色の円盤が"壁(へき)"だと思います。

 帰ってからこの"壁"の行方を調べまして、関東大震災で焼失したとの記述を見つけました。この世に存在していないなんて、残念です。


 もう1ヶ所の出土地、前原市の伊都国資料館に後日立ち寄りました。そこの「王がいた証」という小冊子に、三雲南小路遺跡の王墓から出土した"壁"の写真が出ていましたので、参考品としてここに載せておきます。



開館時間 : 09:00〜18:00
休館日 : 月曜日・年末年始

入館料 : 無料

TEL : 092-584-3366
所在地 : 春日市大谷6-24



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筑紫鴻臚館

 古代の迎賓館「鴻臚館」。白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本は、防衛線として山城・水城を築く一方で立派な接待所も建造していた。当時の緊張した国際情勢を偲ばせるその施設の存在を、この1月「遠の朝廷」大宰府を訪れた時知ったので、今回は真っ先に訪問することにしました。

鴻臚館跡展示館

鴻臚館跡展示館 : 右手の塀が外野フェンス

 天神で地下鉄を降りるとまるで縁日のような人出で、周辺道路も大渋滞。それもそのはず、「博多祇園山笠」の最中だったのです。では歩いて行こうと道を尋ねると、「アー、平和台ね」という返事。「エッ、平和台球場 ?」。野球好きな方なら良くご存じの平和台球場。鴻臚館跡はその外野席の改修工事中に発見されたんですって。



西暦
鴻臚館関係の出来事
663
白村江の戦い
672
壬申の乱
688
筑紫館文献に初見
710
平城遷都
752
東大寺大仏開眼
753
鑑真和上大宰府に
794
平安遷都
838
鴻臚館の初見

鴻臚館跡



開館時間 : 09:00〜17:00
休館日 : 月曜日・年末年始

入館料 : 無料

TEL : 092-721-0282
所在地 : 福岡市中央区城内1-1



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金印公園

 天明4年(1784年)3月、志賀の島の百姓甚兵衛により偶然発見された金印。日本書紀の記述を絶対とする、皇国史観(現代でもそこから抜け出しきれてはいませんが)全盛の江戸末期とあって、昭和6年に国宝に指定されるまで、金印には受難の歴史があったようです。

金印
 当時の学者の認識として、日本は神の国。他国に従属したことはない、と記紀に書いてあるのに、後漢に朝貢した証として光武帝から「賜った」なんて。しかも「奴」という卑しめた字を用いるなんて、国辱物の品である。

 と言うことらしいのですが、その時代その時代の良識人の尽力で、今は昔の話になりました。現在の博多駅前を歩くと、歩道にも金印の説明板が置いてあるぐらい、金印は観光にも貢献しているのです。




 博多市内から海の中道を通り、志賀の島へ。島に入って時計回りに波打ちぎわの道路を走っていくと、右手に大きな標識。慌てて道路脇に車を停め階段を上ると、そう広くもない(猫の額のような ?)広場に「金印出土地」の石碑がありました。広場と言うより、海に向かって落ち込んだ崖の途中、という感じです。

金印公園

金印公園展望台より玄海灘を望む

 水田の手入れをしている時に発見された、というのでもっと広い場所かと思っていました。学者でもないのにこの地に立つと、「なぜ金印がこんな所に」と謎解きしたい気になりますね、確かに。


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蒙古塚

 2001年9月現在、NHKの大河ドラマでは「北条時宗」を放映中です。金印公園近くの高台には蒙古襲来時の、「1274年の文永の役で、台風のため難破・戦死した蒙古兵士を弔う」ための蒙古塚がありました。

蒙古塚

玄海灘を見下ろす蒙古塚

 ハーンの命令で遠征し、異国の海で散った大草原の勇者達。この地に立つと、アジアの国々に「お国のため」にと送られた、太平洋戦争の日本兵の姿と重なってしまいそうです。


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奴国の丘編

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